2023年 2月

第1弾 63 1 17 吉井川の曲がった鉄橋編 115系4両 瀬戸三谷金剛様 115系4両
第2弾 63 3 6 さよなら連絡船&宇野線開業を懐かしむ編
115系6両、伊予丸
宇高連絡船 115系6両、伊予丸
第3弾 2 11 坊っちゃんの故郷松山を訪ねて編
14系3両+マイテ49-2
松山 14系3両+マイテ49-2
第4弾 5 27 生誕百周年百鬼園祭り特別阿房列車 東京・高松 特急瀬戸スシ24連結
番外 7 25 ハイカラ坊っちゃん号 14系5両 松山-岡山 14系5両
番外 11 27 阿房飛行 グライダー等3機 岡山-松山 グライダー等3機
第5弾 2 5 19 菅田庵の松江を訪ねて編 14系5両マイテ49-2 大阪-松江 14系5両マイテ49-2
番外 2 11 11 三谷金剛様百閒句碑建立 一般列車 瀬戸三谷金剛様 一般列車
第6弾 3 3 24 春光山陽特別阿房列車・文学の町尾道を訪ねて編 EF58-150+マイテ49-2 尾道 EF58-150+マイテ49-2
第7弾 3 9 14 肥薩線のスイッチバック、ループを楽しむの編 寝台特急など 東京-八代 寝台特急など
第8弾 4 4 17 房総快走鼻眼鏡編 一般列車 房総半島 一般列車
第9弾 4 11 14 宮島・江田島ずっこけ編 EF58-150+マイテ49-2 宮島・江田島 EF58-150+マイテ49-2
第10弾 5 4 2 ミステリー東京駅長岡山視察列車の編(まあだだよ)EF58+ゆうゆうサロン 東京-岡山 EF58+ゆうゆうサロン
第11弾 5 11 14 三谷金剛様紅葉狩り号 115系4両 瀬戸三谷金剛様 115系4両
第12弾 6 5 28 雪なし新潟阿房列車の編 一般列車 新潟 一般列車
第13弾 6 10 2 なんでも知ってる大津編 EF58-150+マイテ49-2 大津 EF58-150+マイテ49-2
第14弾 7 11 25 土佐電鉄夢の阿房電車 フェスタ3両、ドイツ市電 高知 フェスタ3両、ドイツ市電
第15弾 8 3 9 華麗なる錬金術旅行・湯河原の天野屋を訪ねる旅 一般列車 湯河原 一般列車
第16弾 8 11 10 三谷の金剛様と吉備津神社両参りコンサート電車 キハ58系2両 瀬戸・吉備線 キハ58系2両
第17弾 10 10 31 高岡万葉線阿房麦酒電車の旅 雷鳥等、氷見線貸切 高岡 雷鳥等、氷見線貸切
第18弾 11 11 14 三谷の金剛様歌声列車の巻 115系4両 瀬戸・三石 115系4両
第19弾 14 11 7 三谷の金剛様もみじ列車の巻 115系4両 瀬戸三谷金剛様 115系4両
第20弾 16 11 14 吉備線100周年便乗と岡電KURO麦酒電車編 キハ58系2両、クロ 吉備線 キハ58系2両、クロ
番外 21 5 29 御馳走帖阿房電車 岡電MOMO 岡山電気軌道 岡電MOMO
第21弾 21 11 8 三谷の金剛様120年目のお参り列車 一般列車 瀬戸三谷金剛様 一般列車
第22弾 22 6 12 宇野線・宇高航路100周年記念(直島銭湯)編 213系2両 宇野・直島 213系2両
第23弾 23 12 11 山陽線120周年記念、文学と映画の町・尾道編 213系2両 尾道 213系2両
第24弾 25 3 20 内田百閒流こだわり食のたび、吉永いのちねの旅 213系2両、犀バス 吉永 213系2両、犀バス

平成5年オカニチ連載

「まあだだよ 内田百閒回顧」   百鬼園倶楽部会長 岡將男

第1回 文壇の借金王 文章抜群だが売れず 10円使い5円借る

内田百閒てどんな人? …とよく聞かれる。巨匠黒澤明監督が「まあだだよ」を撮って、四月十七日から全国で公開するというのに、肝心の主人公百閒先生の実像は、出身地岡山ではちっとも知られてはいない。よそから来た人に聞かれても困らないよう、まずは十回程のこの連載を読んでおいてほしい。

百閒は夏目漱石門下の作家である。いわゆる小説の大作がないので、文学史上の評価はまだまだ定まっていないが、随筆のうまさでは群を抜くものがある。文壇へのデビューは大正十一年の創作集「冥途」によったが、漱石の「夢十夜」よりうまいといわれる幻想的心象風景を描いたこの作品は全く売れなかった。

友人の芥川龍之介は「冥途」を高く評価し「なぜ皆百閒の作品を求めない」と書き残して、その一ヶ月後に自殺した。百閒は芥川の次の作品の腹案を聞いていて、芥川の死後に代作しようかと思うほどであった。

百閒の文章力は、既に岡山中学校時代に、田山花袋の主宰する「文章世界」において何回も入選していることからも類推できるが、第六高等学校(現岡大)時代に、志田素琴先生のもとで俳旬に没頭したことによってさらに磨きがかかったようだ。

大正五年に漱石が亡くなるまでに、芥川の方は既に文壇に登場していたが、百閒はまだ作品を発表する機会を得ていなかった。漱石死後、その全集の編さんに主体的にかかわったところから、百閒が漱石文学のすべてを理解し、継承したことが予想される。

百閒が有名になったのは「百鬼園随筆」においてであって、それは死の直前まで四十年近く書き続けられた。あの「阿房列車」シリーズもその一つである。「百鬼園随筆」の成立には、漱石門下の森田草平が深く寄与している。「『冥途』のようなものよりも、日ごろの冗談を文章にした方がよっぽどおもしろいし売れるだろう」と予測し、そしていわば百閒売り出しにピエロ役を演じたのが草平であった。

草平は百間を,「文壇一の借金王」と呼び「借金を楽しんでいる」と書き、百閒はそれを受けて「無恒債者無恒心」、即ち借金のない者は心が貧しいと言い切ったのである。

草平は「五円借りに来るのに十円使って一等車や人力車に乗ってくるやつ」と百閒を語った。その話が人の興味を引き、昭和八年「百鬼園陪筆」は大ヒットとなったのである。だが、そこに至る過程というのは並大抵のものでなく、古里岡山へ帰ることさえできなくなっていた。

岡 将男(おかまさお)昭和52年東京大学経済学部卒。59年から中国食品工業常務取締役。国鉄ホバークラフトを京橋へ就航させる運動を提案。60年1月には岡山未来デザイン委員会を設立。62年から内田百閒生誕百周年記念事業を推進し、現在百鬼園倶楽部(内田百間顕彰会)会長。趣味は鉄道模型、

飛行機、古代史(岡山の古墳とシルクロード)。38歳。

 

第2回 三つ子の魂 お金に無頓着治らず 残った財産は著作権

百閒がなぜ借金をするようになったかというと、稼ぎ以上に使ったからとしか言えない。百閒の生家は岡山市古京町の造り酒屋「志保屋」で、父久吉の代に身代は大きくなって、その一人息子である榮造(百閒)は何不自由なく育った。丑(うし)年生まれの榮造は、牛のおもちゃが好きだというので、家の者は早速本物の牛を平島(岡山市)から連れてきて、家の中に牛小屋まで作ったという。百閒生家前の文学碑の上の牛のブロンズ像はそれにちなんでいる。

父親は明治の二十年代に、榮造を慶応の幼稚舎に入れようとしたというから、今でもそんな教育熱心な家庭も少なかろう。ところが百閒が岡山中学校の時に店はつぶれた。「泡沫一朝でお店はつぶれ、私は文士みたいなことになりました」と彼は書いている。

しかし、店はつぶれても祖母の持参金のようなものがあったとかで、六高時代にも夏の避暑に明石に滞在していて、毎日レモネードを飲んで支払いがたまって、あわてて送金してもらったりする。

初めて質屋に行ったのは旧制六高に入る直前で、京都の宿屋にチップを払い過ぎて、帰りの旅費が二銭足りなくなり、琴の本を質へ売ったのであった。福武文庫の『大貧帳』の「二銭紀」という文章はぜひ読んでいただきたいものである。

東大入学後、早々に結婚し、子供が次から次ヘとできて、母祖母を呼び寄せて、後の大貧乏の根本ができあがる。漱石の奥さんは、あまりよく百閒が借金に来るので「百閒」というベンネームは、漱石が借金の音をもじってつけてやったものと思い込んでいたという。もちろん岡山の百間川からきているのだが大学卒業後、陸軍士官学校の教官になったが、家中がインフルエンザにかかって、看護婦を雇ったら、その支払いが月給より多かった。芥川の紹介で海軍機関学校の兼務教官となり、さらに法政大学の教授までやって、今でいえば年収二千万もあっただろうと思われるのに、毎晩学生を引率して牛鍋屋に繰り込み、その支払いが月給を超えていた。

不足は借金でまかなわれ、高利貸に追いまくられて、ついに大正十四年に家を出て独居生活に入った。昭和二年、後のこい夫人と同居するいわば二重生活であり、十一年には最愛の長男久吉を肺炎の手遅れで失う。

借金や家族との相克。百閒文学の成立には大変なお金と、家族や友人知人の涙が関与しているのである。しかし、亡くなる時、百閒には借金も資産もほとんどなかったが、唯一著作権という財産を残してしまう。皮肉なことである。

 

第3回 百閒の阿房 列車で弥次喜多道中 1等切符で食堂車直行

私たちは、百閒の生誕百年を祝うためのイベントとして「故郷阿房列車」を走らせた。昭和六十三

年のことで、レトロファッションでの参加者の姿が印象に残っていると思う。百閒の代表作といえばやっばり阿房(あほう)列車」で、九州のある人が「漱石の猫、百閒の阿房」と言ったという。

「阿房」とは、秦の始皇帝の建てたとんでもなく大きな宮殿「阿房宮」からきていて、おそらくは「阿保」の語源なのであろう。阿房列車の始まりは、昭和二十二年の十月に、国鉄の平山三郎さんをお供にして、特急「はと」に乗って大阪に行ってきた旅である。

「阿房と云うのは、人の思わくに調子を合わせてそう言っただけの話で、自分で勿論阿房だなどと考えてはいない。(略)なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思ふ」。(『特別阿房列車』)

用事のない旅だから一等でゆく、帰りは帰るという用事があるから二等でもいいが、あいまいな二等には乗りたくないという。もともと汽車は大好きで、明治四十三年の宇野線開通の時には、初乗りをして宇野ではホームから出ずに引き返した。時刻表を眺めていると夜のふけるのも忘れるほどであったという。

さてヒマラヤ山系(平山三郎氏)との全国行脚は、まるで弥次喜多道中である。平山さんがポケ役で、百閒が繰り出す理路整然としたへ理屈を軽くいなしてしまう。紀行文とはいっても、平山さんがいなかったら名作「阿房列車」は生まれなかっただろう。

汽車に乗った百間は、何にも用事がないわけだから、食堂車に行ってお酒を飲む。平山さんも百閒に匹敵する酒豪だから、食堂車で五時間も六時間も粘る。一等の切符を苦労して取ってもほとんど役立たない。食堂車や駅弁は大好きで、汽車で食べるとスピードという味付けがあると言う。

昨今のデパートの駅弁大会など、百閒ならけしからんと怒るかもしれない。それにも増して、この十八日からのダイヤ改正では、ブルートレインから食堂車が消え、最新鋭の「のぞみ」には初めっから食堂車がないのである。まるで用事のない者は汽車に乗ってはいけないといわんばかりである。

用事がないから、百閒は観光などしない。してはならない。温泉にも行かない。「人がもうけようと思って待っているような所へ行けるか!」というのである。現代の観光ツアーや観光産業の関係者は、ぜひ阿房列車に親しんで、人のもてなし方を研究してほしいと思う。

 

第4回 東京名誉駅長 阿房列車が縁で 委嘱と解任の2つの辞令

阿房列車シリーズの随筆は大ヒットとなり、特別阿房列車のあと区間阿房列車で沼津あたりを行ったり来たりしたり、鹿児島の方にも足を延ばした。九州では八代の松浜軒というのが気に入って、前後九回も訪ねることになる。

松浜軒は八代藩主の別邸で、庭が大変きれいで趣があった。戦後の一時期旅館をやっていたが、百閒が平山三郎さんと行った時には、いつも他には客はいなかったという。昭和三十三年に最後に訪れた直後、お客がいなければ、当然といえば当然ながら旅館は廃業となった。

一昨年の秋、雲仙の普賢岳が大鎮火を起こした日に、われわれは東京から八代に阿房列車を走らせて松浜軒を訪ねた。松浜軒の主人は熊本の出水(いずみ)神社の主の松井葵之さんで「出水神社は水前寺公園の中にあるんですってね」と言ったら「いや、出水神社の中に水前寺公園があるんです」と言われた。

松井家は、肥後熊本細川家の筆頭家老の家柄で、一国一城制の下でも三万石の大名格で八代城を持っていた。ちょうど岡山の虫明藩二万石の伊木家が、池田家の筆頭家老であったのと以ている。ちなみに現当主の松井さんは、あの日本新党の細川さんのいとこだということであった。

松浜軒を百閒が気に入ったというのも、至れり尽くせりのサービスがなくて、ほっといてくれたからであろう。自由人であった百閒には、宿の過度のサービスは干渉と映った。

八代は何回も行ったが、東北、四国、松江、新潟など、合計二万五千八百三十八キロもの「用事のない旅」をした百閒、無那気なようにみえて、実はとんでもない主張をしているように思える。戦前の精神主義の良い部分も悪い部分もすべてかかなぐり捨てて、ひたすら物質的繁栄を求め始めた、日本社会に対して、彼は「用事のない旅」でささやかな抵抗を試みたと私は考えている。

阿房列車運行がきっかけとなって、昭和二十七年の鉄道八十年に、百閒は東京名誉駅長に委嘱された。気難しい百閒さん、「辞令をもらったら、一日だけではやめませんよ」と答えた。「解任の辞令も用意しておかなければいけないよ」という。この解嘱状というのが今回寄贈された遺品の中から出てきた。その百閒名誉駅長、大好きな展望車を見送るのは嫌だと、出発合図もせずに「熱海駅の施設を視察」に出かけてしまう。きょう、東京から出るわれわれの阿房列車は、このエビソードを再現しようというのである。

 

第5回 百閒のグルメ・猫・琴 ぜい尽くした晩さん 学生時代から琴を弾く

「世の中には何でも知っているバカがいる、大学の研究室なんかには…」と言う。もともと法政大学の教授の百閒先生だが、私は百閒ぐらい何でもよく知っている人はいないと思う。

彼は知っているだけでは駄目で、それを忘れたところに味があると言う。情報化社会の現代人にとっては考えさせられる一言である。情報というものは、すべてだれか人の作ったうわさ話にすぎず、肝心なのはその情報を選別する判断力にあると彼は考えていた。

百閒は時代の流れに動じることのない確たる自分の見識を常に持とうとした。彼の作品のユーモアは、時代の流れと彼の考えの微妙なずれが醸し出すものであって、百閒を奇人変人扱いする人も多いが、おかしいのは時代の方であると私は思う。

奇人変人も多数決の論理の産物であって、私なども人と変わったことばかりしようとするので、若干変わり者のように言われるが、本人は至ってまじめなつもりである。

さて話が少しくどくなった。百閒は六高時代から琴に規しみ、大正八年に琴の名人宮城道雄と知り合い、たちまちのうちにお互の心の奥に潜むちゃめっ気を刺激しあって、大の仲良しとなった。百閒が盲目の宮城に文章を教え、宮城は琴を教えるのだが、二人である時講演に招かれた際には、百閒が琴を弾き、宮城が講演をしたという。

また、百閒は宮城道雄たちプロを客に呼んで、桑原(ソウゲン)会という演奏会をやった。クワバラクワバラという訳だ。空襲で琴を焼いたあと、岡山の岡崎の眞さんから琴を送ってもらっている。

親友の富城道雄が、刈谷駅で事故死した後「東海道刈谷駅」を出版している。先日のわれわれの阿房列車でも、夜中に全員刈谷駅で起きて追悼式を行った。

百閒は大変な食いしん坊であった。岡山の大手饅頭は目の中に入れても痛くないほど好きで、カビが生えてもふかし直して食べた。二年前、雑誌サライが百閒流グルメを特集したら、二十頁にもなった。毎朝まず起き出したら、その日の晩餐(ばんさん)のメニューをメモにする。奥さんは大変だったろう。朝は牛乳と英字ビスケットと果物。昼はザルソバ。空腹を押さえておくだけで間食はしない。そして夕食は材料を吟味した十二、三品。おぜんに右へならえと号令してゆっくり食べる。一日が晩餐のためにある。

そしてお酒にビール。「美食は常食にあたわず」がモットーである。うまい酒をもらって「いつも飲めない上等な酒は、もらっても困る」と言う。ぜいたくというものも禁欲あればこそ味があるというわけであろう。

 

第6回  スポーツ航空の草分け 訪欧飛行の先見性 嘱託で7回船旅も経験

昭和四年というから、今から六十年も前に内田百閒は法政大学航空研究会の会長に就任した。他校にないスポーツを始めようという学生の発案に、多くの教宮が「君子危きに近寄らず」と言っていたのだが、百閒は「危きに近寄ろう」という気持ちがむくむくと起こったという。

当時はまだ航空界の創生期であったが、陸軍も潜在的軍事力の育成という点から学生航空の必要性を感じており、練習用の飛行機を払い下げてくれた。百閒先生は東奔西走して航空研究会の発足に努力し、さらに六年には、学生による訪欧飛行を計画するのである。

飛行機そのものが珍しい当時、純粋にスポーツ航空を目指そうというのだから、その先見性は素晴らしいものがある。私は岡山の岡南飛行場を残す運動に少し関係したが、今でもスポーツ航空への偏見はかなりあると思う。訪欧飛行用には、青年日本号を特別に作り、栗村盛孝が教宮の指導のもと、開港直前の羽田飛行場を離陸したのは六年五月二十九日、百閒の誕生日であった。

青年日本号は、羽田の最初の離陸飛行機となった。その日羽田には五万人の見物客が集まり、内田会長の白旗の合図で離陸滑走を始めた。百閒が今でいえば、一流のイベンテーターであるということがお分かりいただけよう。

青年日本号は三度の不時着にもめげず、無事ローマに到着し面目をほどこした。汽車好きというのも、当時の先端技術ヘのあこがれから始まっているのだが、飛行機にしても新しい物への好奇心がおう盛であったからここまでのめり込んだのであろう。

空の次は海だが、百閒は十四年に全盛期の日本郵船の嘱託となり、その縁で七日も豪華客船の旅を経験している。会社の文章の直し役という暇な仕事だったが、律義に毎日出勤し、ボーイ付きの部屋を与えられたその部屋が六四三号室であり「無資産(むしさん)」通じると言われて結構喜んでもいる。

船に乗るのが仕事ではないのに、やたらと便乗してその模様を文章にした。阿房列車の用事のない旅は、一足先に船で実現している感じである。

新造船新田丸について「新田丸問答」という解説を書いたり、新造船八幡丸の処女抗海に乗ったり、わずか二年の間に七日も船旅を楽しんだ。

だが戦局風雲を告げ、新田丸など多くは太平洋戦争開始後に徴用されて空母に改造された。新田丸(空母沖鷹)は十八年、八丈島沖で撃沈され、百閒の愛した豪華客船時代は終わったのである。

 

第7回 人柄偲ぶ品々一堂に 百閒追悼展の遺品 愛用帽子や恋文、表札

作家の遺品というのは、関係のない人には何ともなくても、ファンにとってはよだれが出る程欲しい物である。初版本や原稿は言うに及ばず、財布や帽子までコレクションの対象となり得る。だが、これらを個人が所蔵したとしたら、その人が亡くなればたちまち分散してしまう恐れがある。

岡山では平成元年の百閒生誕百年の時に、三光荘(岡山市百京町)の百閒コーナーがオープンし、この時百閒の弟子の中村武志さんの所有する初版本や百閒のプロンズ像、書などが購入され展示された。

百閒コーナー開設については、三光荘のシンボルとして作るべきだと私が長野知事に提案したのだが、以後百閒については岡山県郷土文化財団が中心となって収集を行ってきた。

百閒の友人であった岡崎の眞さんの所に、たくさんの初版本があると、現岡山瓦斯社長の岡崎彬さんから連絡を受けてお邪魔したところ、署名入りの本が長年の塵(ちり)にまみれて倉の中にあった。そのほとんどは財団に寄贈していただいた。

岡崎さんの所にはまだ未公開の百閒の手紙が八十通も残っている。百閒の遺族の三女の美野さんの所には、百間が清子夫人にあてた恋文が残されていて、公開するかどうか何十年も迷われた末「恋日記」として出版された。この恋文と中学時代の日記なども財団に寄贈された。

一昨年の夏、われわれ百鬼園倶楽部の東京支部の方々が、平山三郎氏夫妻を囲んで東京の百閒旧居近くのうなぎ屋「秋本」に集まった。食いしん坊の百間が、ここのうなぎを気に入って「大の月の内二十九日も食べた」というその店である。

この時、百閒の二人目の夫人で、四十年も百聞の身の回りの世話をされたこいさんの妹のち江さんがいらっしゃっていた。「百閒の使っていた物がたくさんあって岡山の方に差し上げたい」とおっしゃるので、それでは財団の方にぜひ寄贈して欲しいとお話しした。財団の高山雅之さんの丁重なお手紙に感激されたち江さんは、たくさんの遺品を岡山へくださることになった。

百閒の愛用した帽子や服、毎日のお膳のメモ、たくさんの初版本、「日没閉門」の札や表札。その多くは一度黒澤プロが、映画「まあだだよ」で参考にするため借りていたという。だからやっと今年になって岡山に贈られてきた。

今回天満屋で開かれる追想展では、これらすべてを見ることができるほか、百閒旧居の再現も試みられる。また会期終了後は、吉備路文学館での特別展も開かれる。私は当初から「内田百閒記念館」を作れたらと思っていたが、中に入るものはもう十分そろったようである。

 

第8回 先生はオアシスだ まあだだよの摩阿陀会 慕う学生と酔って騒ぎ

黒澤明監督の三十作目「まあだだよ」の封切がいよいよあすに追ってきた。黒澤は以前から百閒を読んでおり、いつか映画にしたいと考えていた。「夢」が公開された時、百閒の初期の幻想的作品群を意識しているのではないかと思ったが、今回発売された黒澤自筆の絵コンテ集の中で、百閒作品からヒントを得たと語っている。

「まあだだよ」の主人公は内田百閒である。百閒は自分の学生たちをとてもかわいがり、学生たちに終生慕われた。若千ベチャベチャしているように思われるかもしれないが、百閒という人間の魅力にとらわれた彼らにとって、百閒は「オアシス」のような存在であった。映画宣伝のコピーに「今、忘れられているとても大切なものが、ここにある」とあるが、百閒についての感想として私も同感である。

映画を見たちょっと年のいった人々は、皆一様に昔の教育の持っていた素晴らしい部分を思い出し涙ぐむ。その感動を、よく分からない若い人々にちゃんと伝えてほしいものである。師弟愛という概念の復活が、教育改革のポイントだとも思う。

さて百閒は、昭和二十四年に還暦を迎え、弟子たちが祝宴を開いたが、翌二十二年、百閒がまだ生きているというので「摩阿陀会(まあだかい)が開かれた。百閒も命名の名人だが、その指導よろしく弟子たちもなかなかユーモアに富んでいる。

会はまず、百閒先生のビールの一気飲みに始まり、続いて百閒の演説がある。「…何しろお忙しいところを、お忙しくなかった人もありまして、誠に相済まぬ事であります」などとやる。酔ってしまえば参加者は百閒も含めて昔のいたずら学生時代に戻ってしまうから大変なにぎやかさである。

古い歌を百閒が独特のかん高い声で歌ったり、ある者は稚内から屁児島への駅名を暗唱したり、あまりの騒動にM Pまでのぞきに来る始末であった。

「摩阿陀会」は、百閒一人が招待されたわけだが、対になる御慶(ぎょけい) の会は、百閒一人で全員を招待するのだから錬金術も大変だった。年末になるとまだ書いてない原稿料を前借りして、 一月二日の会に備える。会そのものはやっばり「摩阿陀会」と同じ大騒ぎとなる。

両方の会は、そのほとんどが東京ステーションホテルの藤の間で行われた。百閒の会は夕方から始まって十一時ごろまでと大変長く、ボーイも「決死隊」が出る程であった。

全体の半分が宴会の模様を撮った「まあだだよ」、さぞかし撮りにくかったろう。巨匠黒澤明氏がどう撮ったか、まずは映画館にてこ覧ください。

 

第9回 2人の夫人が「献身」 百閒の家族 大切な人の死を作品に

内田百閒の随筆には、ほとんど家族のにおいがない。特に晩年の作品では家族生活というのは欠如していて「家の者」という表現しかない。百閒に子供はいなかったと思い込んでいる人もいるぐらいである。

百閒は中学時代の友人堀野寛の妹、清子と恋愛をしてまだ学生時代の明治四十三年に結婚した。翌年長男久吉が生まれ、長女多美野、二男唐助、二女美野、三女菊美と五人の子ができる。

百閒はお婆ちゃん子で、甘やかされて育ったから、常にだれかが身の回りの世話をやかなければならなかった。幼いころは祖母と母と婆やの三人がかりであった。

大好きな父久吉の死は、百閒の一生に大きな影を落とした。今回発見された百閒の資料の中に、その父親の肖像画があって大切にしていたのがよく分かる。懐かしい父親のことを何回も作品の中で書いている。

祖母たけは、百閒と直接血のつながりはなかったが、しっかりした人で百閒をとてもかわいがった。その祖母が亡くなり、百閒は非常に大きな精神的支柱を失ったようである。

百閒という人は、大切な人の死の悲しみを、文章にすることによって乗り越えてゆくような感じがある。父の死、漱石の死、弟子の長野初の死、息子の死、親友宮城道雄の死、さらには猫のノラやクルツに至るまで、死を見る悲しみのエネルギーが作品を生んでいるかのように見えてくる。

だが、祖母たけの死については、なぜかほとんど語っていない。最初の妻。清子は子育てに追われ、百閒は借金に追われ、大正十四年ついに百閒は家を出て早稲田の安宿に逃げ出すのである。そのうち昭和四年になって佐藤こいと同居する。

こいは芸者であってぃ随分と年は離れている。しかし、どうもいわゆる二号邸に移ったというのと感じが違い過ぎるのである。第一百閒は当時食べるのにも困っていた。二女の美野さんによれば、これはもうある種の仕事場、書斎を持ったと考えてもよいという。事実、百閒は二つの家を行き来する。

昭和十一年長男久吉が、肺炎をこじらせて亡くなり、その悲しみを「蜻蛉眠る」に書き綴ったところから、清子との交流は止まる。このころ既に百鬼園随筆で有名作家となっていた。

映画「まあだだよ」に出てくる奥さんとは佐藤こいであったが、実は昭和三十九年に清子夫人がなくなるまで戸籍上百閒の妻であった。四十年もじっと黙々と子供たちを育て上げたのである。清子夫人亡きあと、こい夫人は入籍されてやっと正式な妻になる。清子夭人とこい夫人の二人の献身が、百閒文学を生んだとも言えよう。

 

第10回 それぞれの「百閒像」 映画「まあだだよ」を見て 作品読んで魅力を知って

先週いよいよ百閒を主人公にした映画「まあだだよ」が公開された。黒澤明監督の三十作目であるとか、所ジョージが出てることが強調されて、主人公が百閒であることが薄れているようである。私の感想としては、とにかくかなり百閒らしい部分は描けていると思うが、百間はもっと複雑で威厳があったかもしれないと思う。映画化が決定して一番に思ったのは、黒澤明氏自身が主役をやったらいいというこ

とであった。

映画界における黒澤の存在は、まさに巨匠以上のものがある。黒澤天皇という言い方さえある。今回の映画を通じて私は少なからず映画界のことを知ったが、黒澤組といわれる黒澤監督とスタッフ俳優たちの関係は、百閒とその弟子たちの持っていた絆に実に良く似ていて、だから黒澤には威厳があるのだし、いつまでも映画制作の意欲を持ち続けられるのだろう。

黒澤は昔から百閒の作品を読んでいたという。私は前々作の「夢」を見て、百閒の作品の陰を感じていたが、黒澤自身そのことを絵コンテ集の中で語っている。黒澤は「映画は映像で見せるのであり、その意味で百閒先生を描いていても、やはり私自身の描く百閒像に違いない」と、他の対談でも言っている。

百閒の熱心なファンは、黒澤が百閒を材料に映画を撮ると知った時、妙なさみしさを覚えたものである。自分たちが数々の文学遍歴の後、やっと堀り当てた鉱脈を、ずかずかと踏み荒されたような気がしたのである。百閒の作品は、ネタそのものも面白いが、その話は独特の悲哀のベールに包まれている。ちょっとした光の当て方によっては、紫にも赤にも青にも見えるような多面性を持っている。

だから百閲フアンは、それぞれの百閒像を持っていて、必ずや黒澤の描ちょっと百閒像とは異なっている。「あれは百閒じゃない」と言いたくもなる。

戦前、既に百閒は映画や演劇になっており、その時百閒は「映画を見て、自分が全くその通りだと思われるのは意外だが、自分の作品から筋を作ることができるのは、自分の文章がまだ未熟だからだろう。映画には映画の求める理想があるだろうが、このうえはぜひ自分の文童を読んで欲しい」と言っている。

「まあだだよ」を見て、また、私のこの連載を読んだり追想展を見て百閒に興味を持った方は、ます百閒の作品を読んで欲しい。そしてあなたの百閒像をつくって欲しい。その心の中の百閒は、きっと日常生活の中でキラリとした光をあなたに与えてくれるであろう。(おわり)令和2年5月17日修正

オカニチ連載「まあだだよ 内田百閒回顧展」平成5年 岡將男

#内田百閒    #阿房列車    #故郷阿房列車    #まあだだよ #黒澤明 #食堂車  #百鬼園倶楽部 #御馳走帖  #展望車   #マイテ492

故郷阿房列車(1987~2013)からMOMOでワイン電車 & ビアガー電へ (2008~)

■岡山が生んだ作家・内田百閒の「阿房列車」はRACDAの活動の原点でもある。日本初の鉄道オタクとも呼べる百閒は「用事の無い旅」で全国を駆け巡り、現代に通じる鉄道の旅の楽しみ方を顕わした。

■1987年以来内田百閒顕彰会である「百鬼園倶楽部」では、展望車マイテ492などを使った「故郷阿房列車」を24回貸切運行。「東京岡山16時間38分、お急ぎの方はのぞみ3時間15分をご利用ください」とのキャッチフレーズなど、食堂車が大好きな百閒に因んだご馳走を楽しみながら、時には貨物列車にも追い抜かれて喜ぶような、急ぎすぎる現代社会への痛烈な批判を内在しつつ、レトロファッションコンテストに興じたりもした。

■内田百閒全作品を収録した旺文社文庫の廃刊後、福武書店(現ベネッセ)に文庫本の発行を依頼した。「贅沢の意味を知っている作家」とも言われる百閒、今やその阿房列車精神は、全国100以上のグルメ列車に反映されて、鉄道の旅の楽しみ方を広げている。

2023-0226Facebookコメントより
■日本は明治以来、鉄道を使って国家を発展させ、今もって東京大阪など大都市圏は鉄道に支えられている。だが地方都市圏では鉄道バスは無くても、自家用車があるから、困らないと誤解している人も多い。
■しかし、鉄道の登場によって、明治時代には地方都市への集住が実現し、夏目漱石や与謝野晶子は、鉄道を使って全国に講演行脚をする事が出来た。さらに全国の景勝や温泉地も賑わい、今日の観光需要が発生した。国立公園などもその流れで登場したものだ。
戦後は道路網の整備とともに、路線バスが発達し、元々細長い国土の日本の隅々まで観光バスが走るようになった。食堂車も駅弁もこうした観光需要を支えた。
■昭和40年代のモータリゼーションはさらに気楽に、個人レベルでの旅行の可能性を拡大し、飛行機も登場し、これら鉄道・バス・自家用車・飛行機それぞれの交通モードの特長が生かされていた。
僕は「鉄道文化」とか「バス文化」とか呼んでもいいと思う。
■さてここでRACDAの創立時の幹部は、内田百閒顕彰会である「百鬼園倶楽部」の幹部が半分いた。百閒にちなんだ故郷阿房列車を24回運行。新幹線から食堂車が消えていく時期、我々は
「食堂車にはスピードという味付けがある」
とのたまう百閒を顕彰し。分割民営化当時のJR岡山支社と、展望車などを貸し切って全国を走らせた。

さらに路面電車MOMOの導入時に、JR九州の電車をデザインしていた水戸岡鋭治さんにデザインを頼んで、いまのワイン電車などに繋がる。こうして今や全国にグルメ列車が100以上走るようになった。とりあえず、阿房列車精神の蔓延には成功した。9年前、月刊サライは、グルメ列車特集では、岡山でのこうした動きを取り上げてくれた。
■内田百閒が語っていたのはまさに「鉄道文化」ということだ。単なる輸送機関というだけでなく、鉄道の旅そのものを楽しむ価値を「阿房列車」の中で語っている。
■同様にバス文化も、自家用車文化もあり、その特性を生かした人々の生活があるはずだ。交通モードは何でも一緒というわけではない。
我々は百鬼園故郷阿房列車以来ラクダまで、一貫して交通の、都市や文化、地域や国全体、さらには経済に対する影響を考え論じてきた。ただ百閒は「人が儲けようと待っているような温泉には行かない」という。「みんなが行く、江ノ島・日光・箱根には行かない」とものたまう。実質的に松江に招かれたときも、「取材旅行ですか」という新聞記者の質問には、つむじを曲げ、「それはあとのこと」とも言う。松江市役所の漢東種一郎さんが、不昧公の菅田庵にお連れしたところ、「不昧公には用は無い」と引き返してしまう。
また、新幹線ができようとするとき「そんなに急いでいたら、人はいつも移動ばかりしているようになる」とも言う。まさに出張の連続で仕事していることになっていたビジネスマンへの痛烈な批判にもなっている。コロナ禍で、我々は少しそうした矛盾に気が付き始めている。
こうしたエピソートをヒントに、スマートな地域振興と観光を考えてみるのもいいだろう。

ラクダのワイン電車。ビアガー電運行の契機
鉄道から食堂車が無くなったと知ったら、百閒は悲しんだろう。
「食堂車には、スピードという味付けがある」
と百閒はのたまう。冷めたご飯の駅弁がおいしいのは、やはり車窓をみながら、旅という非日常空間を楽しむことが、味付けになっているからにほかならない。

そこでRACDA主催の岡山駅前電停を発車する「ワイン電車」(独自)「ビアガー電」(熊本市交通局の商標登録有り)が始まった。新幹線の食堂車が無くなったから、それでは路面電車で食堂車をやろうという反骨精神だ。毎週金曜日の夜、水戸岡鋭治デザインの世界一おしゃれな内装で知られるMOMO2を使用して運行されている。MOMOのデザインのとき、水戸岡さんに『恋の生まれるようなデザインにしてください』と頼んでいた。また、ワイン電車の運行を想定してあちこちにグラスを置く台を作って頂いた。これも百閒の影響だ。市民団体が運行するのは、日本一短い路面電車軌道を延伸するための、市民啓発活動の一環として、路面電車を楽しんで貰うことを目指しているからだ。

■ワイン電車等は2007年から運行を開始し、半分は全車または半車の貸切に利用されている。(コロナ下では運休、2019年までに304便、6465人)ライブ演奏も入り、音楽も楽しめる。2011年導入のMOMO2では各座席に飲食用のテーブルが装備されており、「基本的には飲食禁止の路面電車」の常識を打ち破るものである。(熊本市交通局COCOROも同様の内装)もちろん、通勤時、多客時には飲食しないというのがマナーなのだがちょっとおしゃれなMOMOに乗ってランチするのはありかも。

百鬼園故郷阿房列車全記録 故郷阿房列車実績pdf

赤字鉄道、存続の秘訣は富山県「万葉線」で学べる | ローカル線・公共交通 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース (toyokeizai.net)

RACDA高岡の活動が、どのように全国の鉄道存続運動の展開に繋がっていったか、端的に触れられている。
岡山の場合は、都市交通の拡大がテーマだったが、30年前既に日本社会の行き詰まりを予測して、会を立ち上げた。
そのネットワークがいままた、全国のJR路線の廃止危機、バスタクシーの消滅危機で注目されつつある。
ここで語られているように、オタクや趣味人であっても、プロもしくはプロ以上の知見を持つ人々がキーになっている。
僕自身もプロというわけではないが、オーケストラの指揮者と同じように、誰がどのような知識と能力を持っているかだけはわかる。
毎週のZoom会議も144回、最近また新規参画者が少しづづ増えてきた。それぞれが持つ知見をZoomで共有できるのは素晴らしい。
その成果と言うべき、「クリーンモバイル岡山倉敷連星都市圏3」は、来週の京橋朝市でも頒布する予定だ。
鉄道を存続させるだけでなく、投資に見合った社会的効果を出せるようにする処方箋をちりばめた。
あえて芸備線・姫新線の問題には触れなかったが。岡山県内の市長秘書室宛に送らせて頂いた。

バスは来年パルマで市民カードを持っている人のために無料になります 。 これは月曜日にパルマ市長のホセ・ヒラによって発表され、バレアレス政府のモビリティ・住宅大臣であるジョセップ・マリが同行し、市営交通会社(EMT)がこのチップを補うために約20万ユーロを受け取ることを指定しました。 このようにして、市内に市民カードを持っている人は、2023年を通してパルマのEMTのバスで無料で旅行することができます。お持ちでない方は、チケットの料金を支払う必要があります。 この措置には2つの目的があります。ヒラは、一方ではウクライナ戦争に起因する価格の上昇に直面した家族を支援することを目的としており、他方では持続可能なモビリティへの取り組みであると説明しました。新着2023-0201 

◆佐賀県:県内全ての路線バスが週2回”無料”に 歩くライフスタイルで新たな「まちの魅力」に気付いて
◆長崎:「バスや路面電車を8日間無料に」長崎市が臨時議会に提案 公共交通利用促進と生活負担を軽減
◆宇都宮市:脱炭素化「世界初」目指す 公共交通、30年までに
◆富山:庄川?井波に無料バス 月、金曜限定 あす実証実験開始
◆丸亀市、フェリーやコミュニティバスで「旅客運賃無料キャンペーン」を2月末まで実施中

コロナ下で鉄道バスのサービスレベルを「お客様のご利用状況に合わせて」減便するのが、妙にトレンドになっている。また雪や雨で予防的に止めるのが当たり前にもなってきた。
そもそも安全確保は大事とはいえ、一方で自動車を利用できない人、高校生、高齢者、旅行者、病弱な人々にとっては、電車バスは生活や命を繋ぐものでもあるはず。規制緩和以降の運輸行政と事業者の姿勢、自治体の姿勢は、「最小限の足の確保」に汲々として、「本来公共交通に必要なサービスレベル」を確保しなくなっている。典型例は、鉄道のトイレや駅舎の撤去だろう。自らの優位性をかなぐり捨てて、一方で「駅ナカビジネスにいそしむJRグループ」の姿は、悲しくもある。
かつて鉄道マンもバスの運転手も、あこがれの職業だった。いまいる事業者の幹部にも、鉄道やバスの使命感に誇りを持って入社した幹部はまだいるはずだ。新自由主義に毒された資本の論理にたいして、現場でも立ち上がってほしいものだ。

昨日入稿したRACDAの広報冊子「クリーンモバイル岡山倉敷連星都市圏3」では、鉄道バスのサービスレベル論議が沢山ある。是非ともこの議論に参加し、全国の悪しき流れを断ち切っていただきたい

■関西、住みやすさ磨け 関鉄協都市交通研・正司健一所長 新着2023-0301 日本経済新聞
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運転手不足は原因でなく、低い給与と報いられない労働の結果だ。それを効率化とかで解決できるものではない。地方の公共交通を守るという後ろ向きな取組みでは無く、魅力有るサービスを提供し、やりがいのある職場にしなければ、この国の衰退は止まらない。
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「攻めの廃線」とは何だったのか!?鉄道路線消えた夕張のその後 新着2023-0206 Yahoo!
「混雑で疲れ果てる」「ひどい」福岡都心のJR減便、相次ぐ苦情 新着 2023-0205 西日本新聞
ナショナルミニマム不在の医療・交通シンポジウム2/26  新着 2023-0206 島根大学附属病院
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まるでバス停? JR四国が進める駅舎の簡素化めぐり、異論続出 新着2023-0204 朝日新聞
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折角の利用者を制限しようとするのは、逆行だろう。京都のしない観光には、本来トラム建設が必要だ
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